友達について

 

物心ついた時から「友達がいない」と悩んだことはほぼない。幼稚園から何度も転校を繰り返しているし、クラス替えの時期と重なれば半年しか関係がなかった子たちもたくさんいるのだけれど、それでも毎回誰かしら友達を見つけて、それなりに過ごしてきた。私はちょっと変わったやつだったと思う。休み時間になると1人の場所を探して彷徨ったりもしたし、廊下がオープンスペースになっている学校ではついたてがそこかしこに置いてあって区切れたので、3枚並べて三角の「自分スペース」を作って本を読んだり、耳を塞いだりして過ごした。友達と関わるのは好きだったけれど、そればかりだと刺激が多すぎて苦しくなってしまう。(これについては、発達障害的なものなのか虐待による過敏さなのか今でも分からない。)それでも友達は「今なら遊べるんだね、一緒に遊ぼう」くらいの適当な距離感で一緒にいてくれたし、私もそういう距離感がありがたかった。

中学生に上がってからは練習量が多い部活に入ったので、朝は6時から朝練、学校の大きい中間休みもビデオで振り返りか理論の学習、夜は20時まで夜練、みたいな生活をして「適度な距離」で「ストレスの少ない誰かと過ごす」ことがなくなってしまったので苦しかったけど、幸い中3での転校が早くに決まったので2年生の夏休みには退部をしてしまった。中学生時代にはあんまり楽しい思い出はない(と自分では思っている)けれど、成人してからも連絡を取り合っていた友達もいるのでそれでも数人は友達がいたんだと思う。

 

最近、友達の話を聞いたり夫の話を聞いたりして、「あいつだけは思い出すだけで苦々しい気持ちになるな」と言う人間が誰しも人生で1人2人はいるのかもしれないと思った。私にもそういう誰かがいるのかもと思って思い出せるだけ思い出してみたけれど、私にはそういった友達はいないようだった。でも、1人だけ、「あのこと接した自分だけは本当にいつ思い出しても苦々しい」と思う子がいた。

 

私は転勤族だったので、成人するまでの間で一番長く留まっていたのは小学校4年生〜中学校3年生夏までの4年半過ごした家だ。小学校4年生の時に、同じクラスと隣のクラスに双子がいた。彼女たちは二卵性だと聞いていたけど瓜二つで、秀才であることも、運動神経がいいことも、くるくるとした硬質の天然パーマであることもよく似ていた。中学生になり、双子のそれぞれの人格(ひとりは頑固で真面目で、何か自分の意にそぐわないことがあると苦々しい顔をするし、もうひとりは朗らかで、困ったときの笑い方が切ない)を分かってきた。私は朗らかな方の彼女と、「友達の友達」くらいの付かず離れずの距離感で接するようになった。彼女らは相変わらず頭がよくて運動神経もよくて、よく部活でも表彰されていたしテストでもいつも上位にいたらしいけれど、朗らかな彼女からは双子のもうひとりや彼女の父母のような「お堅い」感じは全くなかった。むしろ、家族のそれを揶揄されるといつも困った顔で笑っていた。彼女が学校の仲間から外れ出したのは、確か学年の中でもとびきりやんちゃで、顔が可愛くて体格がちんまりしている、ちょっと不良風な男の子と付き合い出した時だ。私は彼女とは違うクラスだったし、「友達の友達」くらいの距離感だったのでその子がみんなといる頻度が目に見えて減っていても何も疑問に思わなかった。2年生の夏、茹だるような暑いオープンスペースで、友達が彼女を見ながらくすくすと笑い、「アイツ今からトイレかな。ぼっちウケるんだけど」みたいなことを話していて、「あっ」と思った。彼女と話さなくなって数ヶ月経っていた。「なんかあったの?」と聞くと、「最近調子乗ってるからみんなハブってんだよね。あれ、知らなかった?最近話してる〇〇ってあいつのことだよ」って返されて、今自分はとんでもない話を聞いている…!と思ったことだけ覚えている。あだ名は本当に何か忘れたけど、彼女を揶揄するための暗号のようなもので、私はそれを「自分に全く関係のない誰か」のことだと思って笑って聞き流していた。休み時間は短いのでモヤモヤしたまま一旦自分の教室に帰って、その後少しして普段は行かない塾の自習室に行って話を聞いた。詳しくは覚えていないけれど彼女がハブられた理由は「みんなが調子乗ってるっていってる」し「なんかムカつく」からなんだと聞いた。何か嫌な出来事があったのかと重ねて聞いたけれど、それは曖昧にはぐらかされて、ますますわからなくなった。私は彼女が嫌いじゃなかった。むしろ人当たりがよくて、頭もいいし運動神経もいいし、常識的で非の打ち所がない子だと思っていた。でも、噂が噂を呼んだのか段々と彼女に対する風当たりは強くなっていって、「彼氏にも振られたらしい」とか「テストの点数で〇〇に負けたらしい」とか、どうでもいいことまで噂になり出した頃、私も部活を辞めて、暇があれば廊下で駄弁るようになった。その時期は自分の居場所も心許なかったので、彼女たちに同調しようと躍起になっていた。冬のはじめ、初めて彼女を揶揄するためのあだ名を呼んだ時、たまたま彼女と目が合った。目が合った気がしただけかもしれないけど、その時、「本当に申し訳ないことをした」とか「今まで一度も彼女を落とすようなことを言った事なかったのに」とか「彼女がいないか確認したはずだったのに」とかうわっと色々なことを思ったし、自分のことが心底情けなく、恥ずかしくなって、逃げるようにトイレに行った。その後は彼女についての話題は避けるようになったし、そういう態度でいたらよく話していた子たちのうちのひとりとよく話すようになり、呑気な話しかしなくなった。次の夏には転校が決まっていたので、夏までには謝ろうと決めていたけれど、どうにも勇気が出ず、彼女とは話さないままひっそりと転校した。

成人式の二次会で当時呑気な話をするような仲になった友達と、彼女と再会した。彼女は私が転校した後に、みんなと和解(?)したらしかった。私が道端に倒れていた三角コーンを直したら「そういうとこ本当に変わんないね!」と2人から言われた。2人からは私が「底抜けに誰かの悪口を言わない」「誰かの迷惑を積極的に被る」人に見えていたらしい。それを知って、また自分の情けなさが蘇ってきて、あの時彼女を揶揄するようなあだ名を言ってしまったことを数年越しに謝った。「そんなこともあったねえ」と彼女は笑っていた。「あの時はちょっと辛かったけどね」と困った顔でも笑った。彼女は私たちが輪に入らない選択をしたことも知っていて、「あの2人らしいなあ」と思っていたらしい。そういう風に思われていたことも含めて、あの時期の私、本当に情けなくて恥ずかしい。

 

夫に「一番友達関係で後悔していること」として上記のことを話したら、「俺はそんな思いしたことなかったなあ」「いじりみたいなもん?」と返されたので「そうだこいつはハッピーな人間…!」と改めて思った。いじりだとしても友達を揶揄したことがあったかと聞いたら、「俺はどっちかっていうといじられ役というか、うーん…変ないじりをしてるなと思ったらスッと輪から外れちゃってるかもしれない」と話していた。「キョロ充みたいなやつが一番いじるじゃん。でもそういうキョロ充みたいなやつって、自分より体格が大きかったり、いかつい顔のやつには大きく出れないらしいんだよね。俺は体格がずっと大きいし趣味もいかつかったから、そういう輪の中に入らずともそこそこ上手くやっていけたし、嫌だな〜って態度を出すと自ずと話題が変わってったから」と話していて、素直に「ずるい!」と思ってしまった。ただ、夫は人生で出会った何人かの「キョロ充みたいなやつ」のことを思うと苦々しい気分になるらしい。もう二度と関わらないことを祈っているらしい。

私は今まで関わった人たちは「ただのひとりの人間」だと思っているので、縁があれば関わるし、縁がなければ関わらない、それだけのことだと思っている。良縁でも悪縁でも結ぶのは自分だ。強制的に結ばされた縁なんて血縁くらいのもんなのだ。血縁も少し克服したので、縁に関しては怖いことはない。でも、自分とは生きている限り一生付き合っていかなくちゃいけない。自分を守るためでも誰かを守るためでもなく、ただ誰かに迎合したいからという理由で平気で誰かを傷つけるだろう言葉を吐いたあの時の自分だけは心底苦々しい…。こういう気持ちにいつまでもなるのが自分だから、今後の人生はなるべく自分が納得できる理由なく、誰かを傷つけることがないように生きていきたい。

 

 

 

 

 

最近、少し穏やかな顔になってきたなあと思う。

 

一年前から精神科を転院して、カウンセリングが丁寧に受けられる病院を探してそこに通っている。過去の環境のせいで自分は辛いと長らく思ってきて、それをなんとかしたくていろんな本を読み漁ったり、過去に整理をつけたりしてきた。今ではほぼ過去のことで悩むことはないし、対人関係の上でのストレスは繰り返す転職のたびにどんどん減っているはずなのに、どうしても「社会に馴染むのが難しい」「日常的なストレスすら自分で適切に対処することができない」「時間が過ぎるのがただただ苦しく思えてくるのはいつも変わらない」と悩み、転院を決めた。今の病院では「具体的な対処の方法を見つけていきたいんです」と最初に話すことができたし、おおむね希望を聞いてくれていてありがたい。

最近、初めて何か行動を起こす前に入院したのだけれど、それは自分を取り巻く環境に対する信頼も高くなってきたからなんだろうな、と素直に思っている。以前「自分の命を人質に取ることでしか『助けて』と言えない」と書いていたけれど、最近の私は「マジで自分の命を人質にとってしまいそうなんですわ…」と素直にいうことができたし、「そりゃ助けるしかないなあ!」と周りが動いてくれた。今回は対人関係のストレスというよりは食、睡眠、適切な余暇を働きながら両立するのが難しくてまいってしまったんだと思う。入院生活はその点では食事、睡眠、適切な余暇時間が管理されているので本当に過ごしやすかった。最初の三日くらいは昼も夜もなく寝まくっていたし起きたらただ泣いて過ごしていたし、周りの少しの物音がするだけで怖くなっていたけれど、過敏さをどうにかするような服薬と多分ゆっくり寝たことで少しずつ落ち着いて、日中の活動にも参加できるようになった。二週間ほどで退院することができたし、内臓も心もボロボロや…って状態にはならなかったのは自分を褒めてあげたい。周りに迷惑をかけて自分を褒めるなんてどういうことだってばよ、みたいな気持ちもずっと持っているんだけど、それでも褒めてあげたい気持ちだけは持ち合わせていたい。

 

入院中に、というか入院生活をする少し前から「このまま一般就労で働いていけるんだろうか?」と思って色々情報収集をはじめていて、最近「一般で就労するのは自分のステップとしてはレベルが高いかもしれない」と思うようになった。まず私、自立した生活習慣がなさすぎる。これをやっていれば自分は安泰だ、と思える食事や睡眠、適切な余暇のサイクルも知らないのに、仕事をした上で見つけるのは難しい。精神や身体の症状の出ない生活のサイクルを見つけた上で、ちゃんと仕事がしたいなって思うし、そういう土台作りをこれからちゃんとしたいと思っている。就労自体は好きなので、手や体を動かす仕事をやって生きていきたい。パソコンをカタカタ動かす仕事は多分「仕事として好き!」には一生なれないと思うし、まず1日のうちパソコンに向かっている時間が長過ぎたら自分の健康のバランスをすぐ崩すと思うからパソコンの仕事は難易度が高い。幸い障害者手帳や年金、区分申請も自宅を出るときに一通り済ませているので、困ったら福祉に頼るのもやぶさかではないなと思っている。大学に入ってすぐ、「普通になりたいんだ!」と停止していたけど、まだステップとしては難しかったのかもなあ。何年も遠回りして結局それに行き着くなんて笑っちゃうけど、「普通に生きていかなきゃいけないんだ」「自分の足りないところは自分でなんとかしなきゃいけないんだ」って気持ちが落ち着いたってことなんじゃないかなと前向きに捉えたい。雇用の形態を変えることでまた苦しいことも増えるかもしれないけれど、向き合ってやっていきたいなあと思う。そして自立した生活習慣をちゃんと手に入れたい。

自立した生活習慣の欠落は、生家の環境による影響もあると思っている。でも、うち、父も母もあんまりそれを教えてもらって生きてないんだよな。どっちかと言うと叱られて身についたところが多くて、「教えてもらった」なんて思えるところ、1ミリもないんだと思う。両親が自分の父や母に一番求めていたことは「自分の人生を自分で選んでいい」と言われることだったと思うし、父はお金が、母は脈々と続く家制度がそうさせてくれない人生だったから。その点では学歴で進路が狭まることがないようにお金を稼ぐとか、「勉強ができた方がいい」と言うとかしてくれていたなと思う。親戚の煩わしさもなかった。ただ、絶対に両親に言うことはないけれど、自分の人生を選んで生活できるだけの基本的な生活習慣については個人の努力に丸投げされ過ぎてたと思う。家族の危機があって生活習慣ぐっちゃぐちゃの時期と私の養育の時期が一番かぶってたのもあるかもしれないけど。タイミングなんてどうもできないし、今は苦しい時期に生活をちゃんとするのも、自分が教えてもらってないことを誰かに教えるのも難しいよね、と思うから、それによって獲得できなかったものは今からでも獲得するしかない。夫はまじのまじで自己完結型の生活をしているし、誰かを生活に入れることが苦手なタイプだから、私は適度に寄っ掛かりつつ、夫を目標にして自分の生活を獲得していきたいなと思っている。久しぶりに文字を書いたら疲れちゃったから寝ようと思う。まだ体調が悪くて、毎日どこかしらの不調に悩まされているので、まずは体調をどうにかしたい…あと生活以外の外での振る舞いにも目を向けたいけど、それは追々でいいや。

贅沢病

死にたいと思ってそれを実行できるなんて、贅沢病だと家族からは思われていると思う。私は人生で四度、自殺未遂をしている。

 

初めて病院で目を覚ました時、とりあえずナースコールを押した。何が何だか分からなかったけど、とにかく押した。医者と看護師さんがぞろぞろと部屋に来て何か話していたけれどそれは覚えていなくて、医者が退出した後に看護師さんが、「僕、一日前に挨拶したんですよ。担当の○○です。覚えてますか?」と言われて、自分が一日前にも目を覚ましていたことを知った。倒れてから4日が経過していたらしい。

医者に母親と父親と弟が昨日きたこと、目を覚ましてすぐ、母親が「自殺するなんて信じられない。お前は私への当てつけのために自殺を図ったんだろう。そこまで家族を苦しめて楽しいか」と詰ったため止めたことを伝えられた。当分父親だけが面会に来るらしい。母親の面会はどうしたいかと医者に聞かれた。もう何も分からなかった。ただ、もうどうでもよかった。私は失敗したのだ。

 

医者が当分の面会を止めたからか分からないけれど、半年間の入院で母親が面会に来ることはただの一度もなかった。病院着は任意だったらしい。私は父親が病院着を手配してくれていたことを病室から出られるようになって初めて知った。シャンプーや歯磨き粉も置いてあった。持ってきてくれたらしい。久々の入浴で置いてあったシャンプーやボディーソープを使ったら久々に蕁麻疹が出て、肌に合わないのかもと言われた時に、それが100均のシャンプーとボディーソープであることを教えてもらった。親に持ってきてもらったもの、私には使えないものが多すぎたので、心電図をつけたままの外出が認められた。テレビカード用だよと渡された少しばかりの現金を持って、家に帰って外出着数着を見繕い、ドラッグストアでシャンプーとコンディショナーを買ったらボディソープを買うお金がなくて、あまりの10円で父親に電話してお金を持ってきて欲しいとお願いした。「せっかくお母さんが持ってってあげたのになんで使えないかなあ」と責めるような口調で言われたけれど、「看護師さんから蕁麻疹が出たのはシャンプーのせいだろうって言われちゃったから…」と看護師さんのせいにして誤魔化した。

 

私が最初に運ばれたところは大学病院の中の精神科病棟で、自殺未遂や急患に対応している地域で二つしかない医療機関のうちの一つだった。だから、私が入院している半年間の間にも、さまざまな方法で自殺を図った人がひっきりなしに運ばれてきて、多くは身体の回復とともに他の病院に転院して言った。ずっと残っているのは、既往症が他にもあって他の精神科病棟じゃ診れない患者さんか、拒食症の子。拒食も極めると心臓に負担が掛かるらしい。あんまり食べないと鼻チューブで強制的に栄養を取らされる羽目になるから、みんなギリギリのところで痩せを保っていた。あとは、突発的な自殺未遂だと判断されると、他の病院への転院が難しいから、そういう人も3ヶ月くらいはいたと思う。私は多分「突発的な自殺未遂組」かつ、「帰宅練習の後体調を崩したり、眠れなくなったりする」のの2つで多分長めに入院していたんじゃないかなと思っている。よく分からないけど。

その後結局一度は退院したんだけど、通院が2年になる頃に「このままじゃ絶対に死ぬ。あと三日も頑張れるか分からないほど、毎日死と睨めっこしている状態」と話したのをきっかけに再度入院することになり、それを契機に「家には戻らない方向で支援を考えよう」と、もう児童福祉法にも守られなくなってしまった年齢の私をどうするか、病院でいろんな打ち合わせをして、精神科のグループホームに移ることになった。看護師さんから、「どこに行っても立て直せるよ、でも、もう親のせいにして生きていてはいけない」「それは今のあなたには苦しいことかもしれないけれど、自立した方がきっと自分の人生を生きられるから」と背中を押してもらった。

 

去年、また自殺未遂をした。家を出てから「死にたい」と思ってもなんとか気持ちを立て直すことができていたけれど、その時は夫もあんまり頼りにならなくて、他に頼る場所もなくて、ひたすら自分で解決策を探して練ってみたけれど何も浮かばなくなって、なんかもういいやと思っちゃった。

夫は私がどんどん落ち込んでいくのを見ても「この人は自分でなんとかできる力を持っている人だから、自分なりに話を聞いたり、できることを増やして支えたい」としか思わなかったらしい。なんかもう嫌になった。

迷惑をかけたくないからとか、そういう気持ちでしか私は苦しい時に生きることを選べない。苦しい時期は誰にでもあると思うのだけど、そういう時にこの世に留まりたいと思う命綱が「周りの人たちを困らせたくない」しか正直ない。自分のことを一切信じられないのかもしれない。

今ですら「苦しくて今後突破できる見通しもないなら(一人なら)死んでも良くね?」と思っているし、多分あんまり生に執着もないんだと思う。何度か自殺未遂をして、また病院で何度となく死を見てきて、なんとなく「これなら割と高い確率で死ねるんだな」というやり方も心得ている。そして、後遺症が残りやすい自殺未遂の仕方も、そうならないためにはどうすればいいかもなんとなく分かっている。

あの時は「夫がすぐに駆けつけなければ高い確率で死ぬ」かつ「早めの処置をすれば割と復帰が早くできる」算段を立てて大量服薬をした。めちゃくちゃ迅速に帰ってくれたにも関わらず結構危なかった。夫には「この処置をしなければ死ぬので、同意をお願いしたい」という電話と、「処置は成功したけれど、もしかしたら死ぬ可能性がありますので今日は起きていてください」という電話の2種類が掛かってきたらしい。「あと30分処置が遅かった場合、死んでいた可能性が高いです」とも言われて、すごく背筋が凍ったとも言っていた。ごめん、私、そういう計算して薬飲んだし、あなたが早く動かなければ死ぬか後遺症がかなり重く残ると分かってて、ギリギリの時間に教えたんだ。

貯めに貯めたメンヘラを発揮したの、後悔がないかと言われれば嘘になるけれど、それ以外にあの時の窮状を突破できる方法があったかと言われればよく分からない。今考えても、手立てが浮かばない。まじで。自分の命を人質に取ることで助けを求める以外、誰が助けてくれるというのだ。自分なんか。

 

たまに思う。生への執着ってどうしたら生まれるんだろうって。

私、人生の中で4回も試しているけど、あんまり「本当に死ぬぞ」と思ってやったことそんなにないんだよね。だから、多分死にたいんじゃなくて、「今ある苦しいことから兎に角逃げてしまいたい。あなたに助けて欲しいけれど、上手に言えない」という気持ちなんだと思う。でもそういう時、自分の命を人質に取るようなこんな回りくどいやり方じゃなくて、上手に頼ったり逃げたりできる人間も世の中にはいるんだと思う。私にはそれができないし、多分「助けて欲しい」と思う人すらいなかったら、泥臭く生きるより「本当に死ぬぞ」に向かうんじゃないかなと思ってもいる。

「上手に頼れない」「上手に逃げられない」だけじゃなくて、多分「生への執着が人よりも薄い」ことも、4回も繰り返した理由として大きいと思う。

 

 

何が書きたかったかって、いまだに生家の人たちには自殺未遂をしたことを定期的に咎められているし、「お前が死を選べる人間だってことが、この上なく腹立たしい」「爆弾を抱えながら生活する苦しさがわかるか」と言われ続けているわけなんだけれど。

それは本当にそうだとも思うし、生家の人たちが共通で悩んできた一つなんだと思う。それはそうだけれど、まあ。

贅沢病でも人は死ぬからね、とは思った。

 

 

 

近況とことば

 

最近の私の近況。1ヶ月研修でお世話になった東京の教室から埼玉の教室に拠点が移って、仕事の質が変わって戸惑っている。新しい教室には馴染めそうにない。馴染めない場所でも円滑なコミュニケーションができるほど器用でもないので、職場でのやりとりがうまくできずにちぐはぐに返してしまう。ちぐはぐな関係しか築けない自分に嫌気がさして自分を責めまくったけれど、立ち止まってよく考えれば迎合したくないっていう自分の意思も関係しているのかもしれなかった。自分のせいにしなくてもやっぱりストレスは溜まるので発散の仕方を試行錯誤したのだけど、このご時世プラス最近の我が家の経済状況では時間もお金も捻出できず出来る範囲で対応するのが難しかったので、諦めて抗不安薬に頼りながら生活した。「人間失格や」とか「殺してくれ」とか最近夫に愚痴ることが減ったので、やっぱり苦しかったんだと思う。

2日前に再就職手当が入ったり立替してたお金の分がどっと舞い込んできたので、ストレス対処の幅が増えていきそうな兆しが見えてきた。不確定なお金を当てにしないでできる最低限の生活をしてきたので、口座にお金が増えてクソほど安心して、今まで心置きなく買えなかったレギュラーメンバーじゃない旬のお野菜をいっぱい買った。66円で買えるクソ安い8枚切りの食パンに砂糖をかけて食べることがここ数ヶ月の食におけるストレスの捌け口だったので、お野菜をたらふく食べたら満足感がすごかった。今月から少しずつ、食に限らずお金をかけたストレス対処をしていって、抗不安薬をフェードしていけたらいいなって思っている。あとはあわよくば、何かうまくいかないことがあった時に、自分の人格否定と切り離した対処が少しずつできていけますようにと思う。

 

あと最近ファミリーサポートのボランティアを始めたりしている。子どもと関わるのは基本的に楽しい。先生とは呼ばれず一緒に遊んだり、ユーチューブの面白い動画を紹介してもらったり、一緒に散歩したりしている。基本一人で支援が完結するので、共通認識のためのコミュニケーションや擦り合わせがないのも楽だ。仕事の合間のいい息抜きになってくれているし、継続でちょくちょくお願いしたいですって方が何人かいらっしゃってありがたい。私こそありがとうございますと思いながら毎回依頼を受けている。

 

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数ヶ月前から友だちと離れて暮らすようになった。仲良くなってからはずっと会おうと思えばいつでも会える距離にいた彼女が、人生の転機を迎えて関西に行ってしまった。それまで彼女とは少なくても1ヶ月に1回は毎月会っていて、その度にたくさんお話をした。

私は相手に伝わるような言葉を使うのがそんなに得意じゃない。昔から「こころだけは誰にも明け渡さないぞ」と意識して生きてきて、自分のこころを出さずに会話する方法を探して、そうやって生きてきたら誰かに伝えるために言葉を練るのが本当に苦手になってしまった。自分と対話することばはたくさん持っているのに、他人と対話するための言葉のレパートリーが少ないまま生きてきてしまって、それに今少し悩んでいる。彼女はことばを練らずにぶつけても会話することができる数少ない人だったから、会って話す機会がなくなってちょっと困っちゃった。以前彼女と、私たちがこうやって会っているのは「娯楽」じゃなくて「生活」の範囲だよね、と話しをしたのだけど、それは本当にそうだったんだと思う。友だちの一人として決断は応援しているけれど、それとは別でやっぱり寂しいし、彼女のいない生活に慣れるのにも時間がかかってしまうと思う。

こないだ彼女から連絡がきたとき、彼女との会話の中で「一人前」とか「依存」ってことばが出てきて、独り立ちするってどういうことだろうと電話を切ったあとにぼんやり考えた。自分の彼女の思う一人前って、自分で完結できる(とか、管理できるとか、責任を持てる)パーセンテージを増やしていくことなのかもしれない。もしそうだとしたら彼女が元気になったら多分一人前に勝手に近づいていくんじゃないかなと思っているし、100%を達成しておしまいになるものじゃなくて、流動的なものなんだとも思う。自分を何%持たないといけないってノルマなんて人生のどこにもないんだから、何かに縛られずに自分のちょうどいいところを見つけて欲しい。

 

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昨日着古してしまったお気に入りのシャツに数ヶ月ぶりに袖を通したら、急に「あ、もう夏は終わったんだ」って気分になった。夏の終わりを間近に感じてからフジファブリック若者のすべてを聴いて準備していたのに、きゅうんと切なくなった。先週の日曜日に買ったたくさんの夏野菜が夏のかけらのようで、使い切るのを躊躇して冷凍しようかと思ったけどやめた。しおしおになりかけた赤ピーマンをグラタンにして食べたら先週よりもあまくて、そうだよなあ、あまくなっちまうよなあと思ったけれどとってもおいしかった。もう少ししたらお気に入りのMA1を着て秋をはじめようと思う。

 

 

 

 

 

生活の再編成

 

夫と被らない休みの日は、ジムに行くことをなんとなく念頭に置いて起きるようになった。13時くらいに出かけて、夕方4時くらいに帰ってこれるのが理想だ。

そうすると必然的に午前中に家事をやる必要があるので、13時までにはやるべきことを済ませるようになんとなく動くことになる。でもジム通いにそこまで縛られている訳でもないので、13時になった時にジム以外にやりたいことができたらその日はそれをやるし、特になければジムに行く。お金を払って何かをするということは自分を縛る枷になると思う。私の場合はジムを契約したことで、休日が怖くなくなった。多少の枷は薬になる。13時からごろごろしたり、カラオケに行ったり、家でゆっくりできる時間も前より持てるようになったし。

 

夫と休みが被る日は、何かしら目的のある日を過ごすことにしている。1ヶ月に10日前後休みがある中で、休みが被る日は5日前後だ。その5日は、一緒に近くの公園や体育館に運動をしに行ったり、岩盤浴に行ったり、生活のことで二人でえいやっと済ませちゃいたいタスクを消化したりしている。最近めっきりデートに行っていないので、来月はデートもできるといいなあなんて思っている。食事はちょっとサボり気味で、惣菜や外食で済ませちゃうことも多かったので、少しずつ自炊に戻していければいいなと思っている。

 

そして、生活費の編成を大幅に変えてみた。

食費の再編が思ったより上手くいった。1ヶ月30000円目標で、お互い仕事の日は1日1000円。昼食(と間食)に使えるのは一人200円に設定して、残りの600円を夕食、朝食に充てている。お互い休みの日は時価で食費の残額や過ごし方に応じて決める。一人だけが休日の時には夕食は700円、休みの人の昼食は100円。物足りない時にはそれぞれ小遣いから出すことになっている。とは言え小遣いもスズメの涙ほどなので食に大きく割くわけにはいかず、少ない昼食代で夕食まで持つよう、週2回の買い物の日に値段と睨めっこしながらお安い食材を買っている。試験的にお弁当や休日昼ご飯の金額設定は激ムズにしてみたけれど、夫は小遣いをほぼ使わずにやりくりしてるらしくてすごい。冷蔵庫の野菜や主食は1つ20円換算で使えることにしたのでそれを駆使しているみたい。私も小遣い温存で過ごせるようにこれから精進していきたいな…。

 

あとは、家庭のボーナスとして年40000円を作ってみた。1年12ヶ月、上限12としてそこから会社を休む毎に残数を引いていって、、残数に応じてボーナスがもらえる仕組みにしようと話をした。(仕事、行きたくなくて休んでしまうとお互いにあんまりいい循環に持っていけるタイプではないので…)。残数1こ3000円だけれど、3こ毎にボーナス1000円プラスで、全部で40000円。計画的な有休は含まず、当日休みのみで計算するルール。それを勤労感謝金と名付けた。正直この4連休、みんながお休みの日に出勤したくねぇ〜1日くらい仮病使いてぇ〜なんか疲れた〜って気持ちになってたけど、「ここで休んだら満額もらえない…」って気持ちが行くモチベーションの一つになってくれたからよかった。1日休んで実質マイナス3000円だとしても、「よんまんえんのため…」って言葉で自分を鼓舞できるのもいい。3000円だと頑張れないし… 

夫は金のコーギーを勤労感謝金で買うことを目指して、とりあえず残数6は確実に残したいらしい。夫の休みの理由は寝不足や疲れが多いので、休まないように少しずつ寝る時間や仕事後の過ごす時間を変化させてる。金のコーギーのために。私はストレスが「行きたくなさ」に明確に現れてからじゃないと何がストレスかも自覚できないし対処も難しいので、とりあえず「行きたくなさ」が現れた時のしのぎに使っている。自覚してからも押し殺して過ごしちゃうと潰れちゃうので、「よんまんえん…」と唱えた日はちゃんとストレスを探って発散させてあげたい。私の場合は明確にモノがなくても頑張れるので「よんまんえん」のために頑張る。「生活の糧」としての給料じゃなくて、「勤労感謝金」だからこそ、お金のために頑張れることもあると思う。

 

大きく変えたのはこれくらいだけれど、とりあえず生活の中で試行錯誤しながら、お金や仕事や生活とうまく付き合っていければいいな。もうすぐ13時になるのでジムに行ってこよう。いってきます。

 

 

 

好きと遊び

 

蒼井優さんが好き。百万円と苦虫女を観た時に「なんて儚く、綺麗な女優さんなんだ」と思った。その当時私は「自由になりたい、しがらみから離れて根無草になりたい」と強く思っていて、百万円と苦虫女は悩みながらも軽やかに住む場所を変えられていてすごいなって思ったんだった。今観るとまた違う見え方をする物語ではあるんだけど、彼女の持っている雰囲気や華奢さと、自然と、人間たちがそこでおずおずと関わっていくようすがいじらしくて今でも大好きだ。

 

彼女が出演している数々の作品の中でも特にナツイチの「ことのは」のCMが大好きで、夏になると繰り返し観ている。その関連動画で最近のCMが出てきたのだけれど、今の彼女は当時の彼女よりも華奢なイメージは薄れて、少しどっしりとした雰囲気を纏っていた。結婚もしたし、彼女自身にも変化があったのかなと推測するのだけれど、それでも彼女は変わらずきれいだ。でも、どうしても、華奢な頃の彼女の細い二の腕やしなやかな体の動き、眉をひそめた困った表情、何かを言おうとする時の一瞬の間、そして儚げな笑顔に引き込まれてしまう。昔は良かったとかそんなことじゃなくて、多分誰もが危うく儚い時間を経て大人になるんだなと思う。そしてその時期はやっぱりすごく眩しい。

 

私もこのごろ「幸せが濃くなってきたんじゃない?」と夫に言われる。自分でも病み感が薄れたというか、なんだろう…言い表せないけれど、路地裏のずぶ濡れの汚い子犬くらいから、家の外で飼われている柴犬くらいには堂々とするようになったなとは思う。8年ほど前にお世話になった恋人に「私を動物に例えるなら、Puppyだと思う」と言われて、英語で答えられたのも含めて全く理解ができなかったのだけど、今はなるほどと思う。確かに、全然馴染めていなくて、怖がりで、そのくせ誰かに頼らないと生きてもいけなくて、ある意味では可愛かっただろうし、そしてとてもめんどくさかっただろうな。危うく儚い時期は誰にでもあるとさっき話したけれど、彼と過ごした時期は特に私の「危うく儚い時期」だったなと思う。でもパピーだからいろんな人に助けてもらえた。自分を綺麗にすること、君はこんなに可愛いんだよと繰り返し言われること、あたたかい場所へのお散歩。そういう全てをなるべく忘れずに生きていこうと思う。まだ「危うく儚い時期後期」って感じなんだけど、今後自分がどう変わっても、自分が歩んできた軌跡は忘れずにいたい。

 

 

話は変わるのだけれど最近仕事を始めた。今までは学齢期の子どもを主に見てきたのだけれど、今度の仕事は未就学児が対象だ。未就学の子ども、人生数年目です〜!って感じでめっちゃ可愛い。あの時期って大人のことどう見えてたっけな…と思い返してみても全く実感として残っていたものはなかったけれど、自分より遥か遠い存在として大人を認識していたなとぼやっと思い出した。今後子どもたちが成長して大人のことが浮きぼりになってきた時期に大人に絶望しないように、「関わってきた優しい大人」の一人になりたいなと思っている。別に一人の人間として心に残っていなくてもいいので、大人の総体のうちの一人としていい大人でありたい。

 

仕事は遊びの中で困りを支援したり得意を伸ばすものなんだけど、未就学児の遊び方を見てると学齢期のそれよりも「好き」が単純なぶん読み取りやすい。学齢期の「好き」は単純な興味関心、感覚の快不快だけじゃなくて、人間関係を営むためのひとつのツールとしての側面もあるので、もっと重層的になっているから難しい。未就学児の遊びを見てると「好き」ってこんな単純でもいいんだった、と思い知らされる。大人にも色々いるので、「そういう『好き』があるのね〜了解!じゃそっちの方面で遊んじゃおっか!」ってなる人と「この遊びはこれを想定しているものなのになんで違う遊びをするの?ちゃんと遊ぼうよ」ってタイプの人がいる。難しいな〜と思うけど私は子どもの「好き」を大事にして遊びたいなあ。「ちゃんと遊ぶってなんなんだ?」って突っ込みたい気持ちもあるし。私はインプット型の余暇 が多いから子どもの遊び方に逆に教えてもらうこともいっぱいあるし、やっぱり人と関わる仕事は面白いなあと思う。これは別のベクトルだけれど、日勤帯の仕事…残業も少ない…神…!と日々思っているから長く続けていければいいな。

 

今日は久しぶりの青空なので、書くのもそこそこにしてジムに行ったりカラオケに行ったりしようと思っている。でもちょっとめんどくさくなっちゃった。

雨とコーラ

 

最近雨続きだなあ。毎年この季節は髪の毛が言うことを聞かない。一年前?二年前?初めてこの時期に「髪質改善トリートメント」みたいなものをしたけれど、あれはほとんどストレートパーマみたいなもので梅雨にも関わらず快適に過ごせてびっくりした。今年は(というか去年の秋あたりから)美容院にも行かず、家でずうっと切ったりケアしたりしているので今梅雨の髪はひどいけれど、なんとなく今年はこのままでいいかなと思って放置している。

 

今日は仕事がお休みだけれど雨続きでしとしとしているので、江國香織さんの「雨はコーラがのめない」を読んだ。

私が持っているたった六冊の文庫本の中の一冊。毎年梅雨になると手に取る。この季節に読むのにぴったりの本だと思う。

アメリカンコッカースパニエルの雨と、江國さんと、音楽のある生活の話。江國さんと雨との生活は「昼と夜の区別があまりない」「監督者のいない子どもが二人で生活しているみたいだ」と文中でもあるとおり、なんとなく、時刻の感覚のない生活な気がする。「時刻」と言うよりは「何をした時間であるのか」で生活が回っていると言うか、そこに時刻の概念はすっぽり抜けている気がする。その代わり、空気感や季節感や、体調の機微や、気分の調子はすごく色濃く描かれている。彼らの生活は、静謐で、野蛮で、清々しい。ひっそりと生活をしているんだろうな。どこかですれ違っているかもしれない。

自分ごとだけれど、私は春から夏への境目の時期に、いつもふわふわとしてしまう。時間の進みがぼやっとして、朝だからどうとか明日があるからとか、毎日の生活リズムとか、なんかそういう脈々と続く未来なものがふわっと霧の中に包まれて、とにかく「今」だけになる感じがする。少し不安にもなるけれど、まあ見えないんだから今だけどうにかなればいいよね、いつの間にか霧は晴れていくよね、と少し開き直ったりもする。実際いつ見ても曇り空の日が多いし、雨も降ったり止んだりで日の進みも分かりづらいし、ちょっと混乱しがちなのもあるのかな。でもそれはそれで楽しむ余地があるのかもしれない。カラオケや満喫は、時間感覚が失われた方が没頭できる楽しみでもある気がする。逆に外に出て「時間の進まなさ」を肴に散歩したりしてもいいし。お風呂にこもってもいい。でも、感覚を失ったように生活していると本当に鬱屈としてきたりもするので、仕事に行けるくらいそこそこは保っていたいけれど。

 

こんなことを書いている間にすっかり夕方になってしまった。これから何をしよう。スーパーに行ってコーラでも買おうかな。それとも映画でも観ようか。スーパーの営業時間で日を計りながら生きればまあ仕事に行けるくらいは保てる気がする。今月の目標は24時間営業じゃないスーパーでモノを買うことにしよう。