近況とことば

 

最近の私の近況。1ヶ月研修でお世話になった東京の教室から埼玉の教室に拠点が移って、仕事の質が変わって戸惑っている。新しい教室には馴染めそうにない。馴染めない場所でも円滑なコミュニケーションができるほど器用でもないので、職場でのやりとりがうまくできずにちぐはぐに返してしまう。ちぐはぐな関係しか築けない自分に嫌気がさして自分を責めまくったけれど、立ち止まってよく考えれば迎合したくないっていう自分の意思も関係しているのかもしれなかった。自分のせいにしなくてもやっぱりストレスは溜まるので発散の仕方を試行錯誤したのだけど、このご時世プラス最近の我が家の経済状況では時間もお金も捻出できず出来る範囲で対応するのが難しかったので、諦めて抗不安薬に頼りながら生活した。「人間失格や」とか「殺してくれ」とか最近夫に愚痴ることが減ったので、やっぱり苦しかったんだと思う。

2日前に再就職手当が入ったり立替してたお金の分がどっと舞い込んできたので、ストレス対処の幅が増えていきそうな兆しが見えてきた。不確定なお金を当てにしないでできる最低限の生活をしてきたので、口座にお金が増えてクソほど安心して、今まで心置きなく買えなかったレギュラーメンバーじゃない旬のお野菜をいっぱい買った。66円で買えるクソ安い8枚切りの食パンに砂糖をかけて食べることがここ数ヶ月の食におけるストレスの捌け口だったので、お野菜をたらふく食べたら満足感がすごかった。今月から少しずつ、食に限らずお金をかけたストレス対処をしていって、抗不安薬をフェードしていけたらいいなって思っている。あとはあわよくば、何かうまくいかないことがあった時に、自分の人格否定と切り離した対処が少しずつできていけますようにと思う。

 

あと最近ファミリーサポートのボランティアを始めたりしている。子どもと関わるのは基本的に楽しい。先生とは呼ばれず一緒に遊んだり、ユーチューブの面白い動画を紹介してもらったり、一緒に散歩したりしている。基本一人で支援が完結するので、共通認識のためのコミュニケーションや擦り合わせがないのも楽だ。仕事の合間のいい息抜きになってくれているし、継続でちょくちょくお願いしたいですって方が何人かいらっしゃってありがたい。私こそありがとうございますと思いながら毎回依頼を受けている。

 

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数ヶ月前から友だちと離れて暮らすようになった。仲良くなってからはずっと会おうと思えばいつでも会える距離にいた彼女が、人生の転機を迎えて関西に行ってしまった。それまで彼女とは少なくても1ヶ月に1回は毎月会っていて、その度にたくさんお話をした。

私は相手に伝わるような言葉を使うのがそんなに得意じゃない。昔から「こころだけは誰にも明け渡さないぞ」と意識して生きてきて、自分のこころを出さずに会話する方法を探して、そうやって生きてきたら誰かに伝えるために言葉を練るのが本当に苦手になってしまった。自分と対話することばはたくさん持っているのに、他人と対話するための言葉のレパートリーが少ないまま生きてきてしまって、それに今少し悩んでいる。彼女はことばを練らずにぶつけても会話することができる数少ない人だったから、会って話す機会がなくなってちょっと困っちゃった。以前彼女と、私たちがこうやって会っているのは「娯楽」じゃなくて「生活」の範囲だよね、と話しをしたのだけど、それは本当にそうだったんだと思う。友だちの一人として決断は応援しているけれど、それとは別でやっぱり寂しいし、彼女のいない生活に慣れるのにも時間がかかってしまうと思う。

こないだ彼女から連絡がきたとき、彼女との会話の中で「一人前」とか「依存」ってことばが出てきて、独り立ちするってどういうことだろうと電話を切ったあとにぼんやり考えた。自分の彼女の思う一人前って、自分で完結できる(とか、管理できるとか、責任を持てる)パーセンテージを増やしていくことなのかもしれない。もしそうだとしたら彼女が元気になったら多分一人前に勝手に近づいていくんじゃないかなと思っているし、100%を達成しておしまいになるものじゃなくて、流動的なものなんだとも思う。自分を何%持たないといけないってノルマなんて人生のどこにもないんだから、何かに縛られずに自分のちょうどいいところを見つけて欲しい。

 

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昨日着古してしまったお気に入りのシャツに数ヶ月ぶりに袖を通したら、急に「あ、もう夏は終わったんだ」って気分になった。夏の終わりを間近に感じてからフジファブリック若者のすべてを聴いて準備していたのに、きゅうんと切なくなった。先週の日曜日に買ったたくさんの夏野菜が夏のかけらのようで、使い切るのを躊躇して冷凍しようかと思ったけどやめた。しおしおになりかけた赤ピーマンをグラタンにして食べたら先週よりもあまくて、そうだよなあ、あまくなっちまうよなあと思ったけれどとってもおいしかった。もう少ししたらお気に入りのMA1を着て秋をはじめようと思う。

 

 

 

 

 

生活の再編成

 

夫と被らない休みの日は、ジムに行くことをなんとなく念頭に置いて起きるようになった。13時くらいに出かけて、夕方4時くらいに帰ってこれるのが理想だ。

そうすると必然的に午前中に家事をやる必要があるので、13時までにはやるべきことを済ませるようになんとなく動くことになる。でもジム通いにそこまで縛られている訳でもないので、13時になった時にジム以外にやりたいことができたらその日はそれをやるし、特になければジムに行く。お金を払って何かをするということは自分を縛る枷になると思う。私の場合はジムを契約したことで、休日が怖くなくなった。多少の枷は薬になる。13時からごろごろしたり、カラオケに行ったり、家でゆっくりできる時間も前より持てるようになったし。

 

夫と休みが被る日は、何かしら目的のある日を過ごすことにしている。1ヶ月に10日前後休みがある中で、休みが被る日は5日前後だ。その5日は、一緒に近くの公園や体育館に運動をしに行ったり、岩盤浴に行ったり、生活のことで二人でえいやっと済ませちゃいたいタスクを消化したりしている。最近めっきりデートに行っていないので、来月はデートもできるといいなあなんて思っている。食事はちょっとサボり気味で、惣菜や外食で済ませちゃうことも多かったので、少しずつ自炊に戻していければいいなと思っている。

 

そして、生活費の編成を大幅に変えてみた。

食費の再編が思ったより上手くいった。1ヶ月30000円目標で、お互い仕事の日は1日1000円。昼食(と間食)に使えるのは一人200円に設定して、残りの600円を夕食、朝食に充てている。お互い休みの日は時価で食費の残額や過ごし方に応じて決める。一人だけが休日の時には夕食は700円、休みの人の昼食は100円。物足りない時にはそれぞれ小遣いから出すことになっている。とは言え小遣いもスズメの涙ほどなので食に大きく割くわけにはいかず、少ない昼食代で夕食まで持つよう、週2回の買い物の日に値段と睨めっこしながらお安い食材を買っている。試験的にお弁当や休日昼ご飯の金額設定は激ムズにしてみたけれど、夫は小遣いをほぼ使わずにやりくりしてるらしくてすごい。冷蔵庫の野菜や主食は1つ20円換算で使えることにしたのでそれを駆使しているみたい。私も小遣い温存で過ごせるようにこれから精進していきたいな…。

 

あとは、家庭のボーナスとして年40000円を作ってみた。1年12ヶ月、上限12としてそこから会社を休む毎に残数を引いていって、、残数に応じてボーナスがもらえる仕組みにしようと話をした。(仕事、行きたくなくて休んでしまうとお互いにあんまりいい循環に持っていけるタイプではないので…)。残数1こ3000円だけれど、3こ毎にボーナス1000円プラスで、全部で40000円。計画的な有休は含まず、当日休みのみで計算するルール。それを勤労感謝金と名付けた。正直この4連休、みんながお休みの日に出勤したくねぇ〜1日くらい仮病使いてぇ〜なんか疲れた〜って気持ちになってたけど、「ここで休んだら満額もらえない…」って気持ちが行くモチベーションの一つになってくれたからよかった。1日休んで実質マイナス3000円だとしても、「よんまんえんのため…」って言葉で自分を鼓舞できるのもいい。3000円だと頑張れないし… 

夫は金のコーギーを勤労感謝金で買うことを目指して、とりあえず残数6は確実に残したいらしい。夫の休みの理由は寝不足や疲れが多いので、休まないように少しずつ寝る時間や仕事後の過ごす時間を変化させてる。金のコーギーのために。私はストレスが「行きたくなさ」に明確に現れてからじゃないと何がストレスかも自覚できないし対処も難しいので、とりあえず「行きたくなさ」が現れた時のしのぎに使っている。自覚してからも押し殺して過ごしちゃうと潰れちゃうので、「よんまんえん…」と唱えた日はちゃんとストレスを探って発散させてあげたい。私の場合は明確にモノがなくても頑張れるので「よんまんえん」のために頑張る。「生活の糧」としての給料じゃなくて、「勤労感謝金」だからこそ、お金のために頑張れることもあると思う。

 

大きく変えたのはこれくらいだけれど、とりあえず生活の中で試行錯誤しながら、お金や仕事や生活とうまく付き合っていければいいな。もうすぐ13時になるのでジムに行ってこよう。いってきます。

 

 

 

好きと遊び

 

蒼井優さんが好き。百万円と苦虫女を観た時に「なんて儚く、綺麗な女優さんなんだ」と思った。その当時私は「自由になりたい、しがらみから離れて根無草になりたい」と強く思っていて、百万円と苦虫女は悩みながらも軽やかに住む場所を変えられていてすごいなって思ったんだった。今観るとまた違う見え方をする物語ではあるんだけど、彼女の持っている雰囲気や華奢さと、自然と、人間たちがそこでおずおずと関わっていくようすがいじらしくて今でも大好きだ。

 

彼女が出演している数々の作品の中でも特にナツイチの「ことのは」のCMが大好きで、夏になると繰り返し観ている。その関連動画で最近のCMが出てきたのだけれど、今の彼女は当時の彼女よりも華奢なイメージは薄れて、少しどっしりとした雰囲気を纏っていた。結婚もしたし、彼女自身にも変化があったのかなと推測するのだけれど、それでも彼女は変わらずきれいだ。でも、どうしても、華奢な頃の彼女の細い二の腕やしなやかな体の動き、眉をひそめた困った表情、何かを言おうとする時の一瞬の間、そして儚げな笑顔に引き込まれてしまう。昔は良かったとかそんなことじゃなくて、多分誰もが危うく儚い時間を経て大人になるんだなと思う。そしてその時期はやっぱりすごく眩しい。

 

私もこのごろ「幸せが濃くなってきたんじゃない?」と夫に言われる。自分でも病み感が薄れたというか、なんだろう…言い表せないけれど、路地裏のずぶ濡れの汚い子犬くらいから、家の外で飼われている柴犬くらいには堂々とするようになったなとは思う。8年ほど前にお世話になった恋人に「私を動物に例えるなら、Puppyだと思う」と言われて、英語で答えられたのも含めて全く理解ができなかったのだけど、今はなるほどと思う。確かに、全然馴染めていなくて、怖がりで、そのくせ誰かに頼らないと生きてもいけなくて、ある意味では可愛かっただろうし、そしてとてもめんどくさかっただろうな。危うく儚い時期は誰にでもあるとさっき話したけれど、彼と過ごした時期は特に私の「危うく儚い時期」だったなと思う。でもパピーだからいろんな人に助けてもらえた。自分を綺麗にすること、君はこんなに可愛いんだよと繰り返し言われること、あたたかい場所へのお散歩。そういう全てをなるべく忘れずに生きていこうと思う。まだ「危うく儚い時期後期」って感じなんだけど、今後自分がどう変わっても、自分が歩んできた軌跡は忘れずにいたい。

 

 

話は変わるのだけれど最近仕事を始めた。今までは学齢期の子どもを主に見てきたのだけれど、今度の仕事は未就学児が対象だ。未就学の子ども、人生数年目です〜!って感じでめっちゃ可愛い。あの時期って大人のことどう見えてたっけな…と思い返してみても全く実感として残っていたものはなかったけれど、自分より遥か遠い存在として大人を認識していたなとぼやっと思い出した。今後子どもたちが成長して大人のことが浮きぼりになってきた時期に大人に絶望しないように、「関わってきた優しい大人」の一人になりたいなと思っている。別に一人の人間として心に残っていなくてもいいので、大人の総体のうちの一人としていい大人でありたい。

 

仕事は遊びの中で困りを支援したり得意を伸ばすものなんだけど、未就学児の遊び方を見てると学齢期のそれよりも「好き」が単純なぶん読み取りやすい。学齢期の「好き」は単純な興味関心、感覚の快不快だけじゃなくて、人間関係を営むためのひとつのツールとしての側面もあるので、もっと重層的になっているから難しい。未就学児の遊びを見てると「好き」ってこんな単純でもいいんだった、と思い知らされる。大人にも色々いるので、「そういう『好き』があるのね〜了解!じゃそっちの方面で遊んじゃおっか!」ってなる人と「この遊びはこれを想定しているものなのになんで違う遊びをするの?ちゃんと遊ぼうよ」ってタイプの人がいる。難しいな〜と思うけど私は子どもの「好き」を大事にして遊びたいなあ。「ちゃんと遊ぶってなんなんだ?」って突っ込みたい気持ちもあるし。私はインプット型の余暇 が多いから子どもの遊び方に逆に教えてもらうこともいっぱいあるし、やっぱり人と関わる仕事は面白いなあと思う。これは別のベクトルだけれど、日勤帯の仕事…残業も少ない…神…!と日々思っているから長く続けていければいいな。

 

今日は久しぶりの青空なので、書くのもそこそこにしてジムに行ったりカラオケに行ったりしようと思っている。でもちょっとめんどくさくなっちゃった。

雨とコーラ

 

最近雨続きだなあ。毎年この季節は髪の毛が言うことを聞かない。一年前?二年前?初めてこの時期に「髪質改善トリートメント」みたいなものをしたけれど、あれはほとんどストレートパーマみたいなもので梅雨にも関わらず快適に過ごせてびっくりした。今年は(というか去年の秋あたりから)美容院にも行かず、家でずうっと切ったりケアしたりしているので今梅雨の髪はひどいけれど、なんとなく今年はこのままでいいかなと思って放置している。

 

今日は仕事がお休みだけれど雨続きでしとしとしているので、江國香織さんの「雨はコーラがのめない」を読んだ。

私が持っているたった六冊の文庫本の中の一冊。毎年梅雨になると手に取る。この季節に読むのにぴったりの本だと思う。

アメリカンコッカースパニエルの雨と、江國さんと、音楽のある生活の話。江國さんと雨との生活は「昼と夜の区別があまりない」「監督者のいない子どもが二人で生活しているみたいだ」と文中でもあるとおり、なんとなく、時刻の感覚のない生活な気がする。「時刻」と言うよりは「何をした時間であるのか」で生活が回っていると言うか、そこに時刻の概念はすっぽり抜けている気がする。その代わり、空気感や季節感や、体調の機微や、気分の調子はすごく色濃く描かれている。彼らの生活は、静謐で、野蛮で、清々しい。ひっそりと生活をしているんだろうな。どこかですれ違っているかもしれない。

自分ごとだけれど、私は春から夏への境目の時期に、いつもふわふわとしてしまう。時間の進みがぼやっとして、朝だからどうとか明日があるからとか、毎日の生活リズムとか、なんかそういう脈々と続く未来なものがふわっと霧の中に包まれて、とにかく「今」だけになる感じがする。少し不安にもなるけれど、まあ見えないんだから今だけどうにかなればいいよね、いつの間にか霧は晴れていくよね、と少し開き直ったりもする。実際いつ見ても曇り空の日が多いし、雨も降ったり止んだりで日の進みも分かりづらいし、ちょっと混乱しがちなのもあるのかな。でもそれはそれで楽しむ余地があるのかもしれない。カラオケや満喫は、時間感覚が失われた方が没頭できる楽しみでもある気がする。逆に外に出て「時間の進まなさ」を肴に散歩したりしてもいいし。お風呂にこもってもいい。でも、感覚を失ったように生活していると本当に鬱屈としてきたりもするので、仕事に行けるくらいそこそこは保っていたいけれど。

 

こんなことを書いている間にすっかり夕方になってしまった。これから何をしよう。スーパーに行ってコーラでも買おうかな。それとも映画でも観ようか。スーパーの営業時間で日を計りながら生きればまあ仕事に行けるくらいは保てる気がする。今月の目標は24時間営業じゃないスーパーでモノを買うことにしよう。

 

 

 

 

夏の気配

今日は本当に何もしていない。6月、暇が始まった頃には「何にもやれない…時間が終わらない…きつい…」って感覚だったのが、最近は「やる気起きなくてネットサーフィンしてたら一日終わっちまったなあ」くらいになった。どうせ7月から仕事が始まる。時間もなくなる。少しくらい無駄に過ごしたっていいのだ。生産性が無い時間を過ごすとその後の自分にツケが回ってきそうで心許なく、生産性のない時間を過ごすのが心底苦手になっていたけれど、6月も下旬になると間延びさせてもとりあえず回ることが分かってきたので、存分に間延びした1日を過ごしている。私は適度にやることがある日を継続するよりも、きつい日とゆるい日を交互に過ごした方が健康を保てる人間なのだと思う。

 

そんな生活の中でもなんかめんどくせえなあ〜と思うのは職場とのやりとりだ。固定電話を引くから全て固定電話に統一してほしい。連絡を。いつでも見れるフリーメールでやりとりを済ませてほしいなんてめんどくさすぎる。何でもかんでもネットで長文の通知をしといて間違いのないようになんて無理だ。私はそんなに器用な人間じゃない。

きっと仕事が始まればメリハリがついて、業務時間の中での社内メールのやりとりや電話のやりとりで事足りるんだろうけど、仕事が始まる前のたった十数通のやりとりなんだろうけれど、それでもくそくそくそ面倒だ。これはただめんどくさくて嘆いてるだけで、私が苦手なだけなのは分かっている。

でも、なんか社会についていけないわけじゃないけど、ついていくのが疲れるなあとは思う。スマホも持っているしiPadもあるし、音楽はサブスクが楽だと思っているし、ネット購入なんかもするし、コンビニ決済やコンビニ印刷は便利!って思っているけれど、取り入れたくないものも生活の中にはある。便利だけがすべてじゃないと思う。生活の中ではアナログなやり方も選択できることが多いけれど、仕事となると選択肢が絞られてしまうので、最初はちょっと疲れるんだろう。今までの仕事がアナログすぎた分、戸惑うんだろうな。

 

 

あとはなんだっけ、夏至を過ぎて、夏のことを思い出したんだった。私はのんびりなので、夏至を過ぎたころに「日が伸びたなあ、もう夏至も過ぎたのかあ」といつも思う。そして梅雨がいつ明けるのかを検索して、来たる夏のことを思う。

私にとって夏は、なんとなくもの悲しく、猛々しさのある季節だ。戦争が終わった季節。8月に戦争の特集がいつも組まれるけれど、私はそれをまともに見たことがない。戦争映画も戦争の小説も、音楽も、詩も、できる限り避けて生きてきた。それでも、小学生のころにテレビ局の企画で行った沖縄のひめゆりの塔(だったかも定かではない)で戦争の体験を話してくれたおばあさんのことと、何人分かをつなぎ合わせて復元させた軍服のことを思う。室内の展示だけでもたくさんの名前があった。生きていた人だ。どんなことがあったのか詳しくは知らない。知識として知っていることもあるけれど、私はその時代に生きていた人間でも、関わってきた人間でもない。でも、そのことを思い出して、たくさんの真実のことを思う。

個人的には、戦争は起こってほしくないなあと思う。その当時の戦争とは全く別物だろうけれど、それでも。できることなら一揆や革命も、なるたけ起こってほしくない。人生で一度も戦争も一揆も革命も経験せずに死ねるのかなあ、そんな人生送れたらいいけど。そして、大事な人が、私より後に死んでくれるなら言うことはないな。

 

今年も夏が来るんだな。雨が降ると言うからジムに行くのを諦めたけれど、7割くらいは晴れと曇りだったんじゃないかな。湿気が多いからか、室温はそんなに高く感じないけれど、脇から汗がつうと伝う感覚があった。夏が始まる前の蒸した空気で、夏を想像している間が一番夏を感じているかも。夏ってなんか、来ちゃえば来ちゃったで通り過ぎていくよね。朝焼けと夕焼けはちゃんと意識的に見るけれど、青空は感じるだけで満足みたいな、そんな感じ。次に夏のことを思うのは、夏の終わりが色濃くなってきた時期だろうな。きっと。

 

からだと幸せと不幸せ

 

 

生活の中にあるちょっとした不幸とか、ちょっとした幸せとすごく近い人なんだと思うと夫に言われた。

 

たしかにそうかも。

 

その時に夫も言ってたけれど、どちらかと言うと不幸寄りのタイプで、じゃれていたら頭をぶつけり、コーヒーをぶちまけたり、背面飛びが人生で一度もできたことがなかったりしている。

 

最近、そんなちょっとした不幸に出会ったときにちゃんと対峙できる人間になりたくて、(あと暇をもて余して)、体を鍛え始めた。三角筋が壊滅的にないみたいで、三角筋に効くマシンは絶対に筋肉痛を起こしている。

自分のからだには体重くらいしか興味がなかったけれど、30も手前になって、今まで一緒に生きてきたからだのことを少しずつ考え始めた。内蔵も外見もたくさん傷つけてきたけど、それでもへこたれずに一緒に生活をしてきたわたしのからだ。これからはちゃんと意識的にからだに頼って生きていきたいので、頼らせてもらおうと思う。もう少し軽やかに動けるようになってほしいので、いろんなところをいじめている。

たぶんだけど、からだが軽やかに、しなやかに、強くなったら、ちょっとした不幸にたくさん出くわしても大丈夫な気がする。

 

今日はたくさん、穏やかにいい日だったな。こういうなんでもない日を忘れないでいたい。今お気に入りの椅子にさびを見つけたけど、生活をちゃんとしていたのでなんとかなった。自分を守る手だてはちゃんと大事にしたい。

 

 

 

 

やるべきこと

 

自分のこと、まじでクズな人間だと思ってる。

就職が延びてしまって、急にお暇ができた。今まで朝からずっとやることがあったけど、急になくなって戸惑っている。

それに何もかも考えたくない。そういう時の時間の過ごし方が私はいつも下手だ。

 

昨日やりきれなさと疲れがどっときて、夫が仕事から帰ってきて開口一番「もう何も考えたくない」「暇を持て余しすぎているけれど、何をしても楽しくない」ということを話した。新しい仕事で疲れて帰ってきたところに朝と同じ格好で部屋も整わず、「何も考えたくないから全部何もかも考えてくれ」と雑に伝えてしまったので普通に喧嘩になったし険悪な空気になった。でもご飯を食べて満腹になり、気持ちも落ち着いたら前向きに話せて、「当分は判断を夫が担い」、「やるべきことがないときついなら、やるべきことを作る」ことになった。とりあえず今日1日のタイムテーブルを作ってくれた。判断を担うのはちょっと難しいかもしれないし、どうせ元気が出たらそこら辺は手伝うんだろうけど、とりあえず心意気だけはありがたい。少しずつできるようになってほしい。

 

今日は夫のタイムテーブルに沿って動いた。洗濯しか「やるべきこと」はないようなもんだったけど洗濯だけちゃんとやった。図書館にも行ったし映画も見た。掃除も気が向くぶんはやった。それでも時間は余るし、夫の帰りを待つだけの時間がこんなにもしんどい。そう言えば昔から、「やりたいこと」をやる時間って人生の中でもさほどなかったかもしれないな。経験不足なのかも。

就職が決まってないけどほぼ確定ですと言われているし、雇用保険の中で休んでいるのでバイトも難しい。働くことを制限されているようできつい。急なお暇で、本当に今まで私の中で「働く」とか「やるべきことをやる」ってことだけが人生の退屈を紛らわすことができる手段だったんだなってのを痛いほど痛感している。就職が決まりそうなところに、「やっぱ無理でした」と言われたら「これで暇がなくなる!」と喜びそうなくらい暇。日中自転車で外に出ると、主婦の方やお年を召した方々が買い物に出たりしているのを見かけるけれど、まじで歩くスピードも買い物のスピードも遅くてびっくりする。ゆっくりと時間を過ごしていないと、もしかしたら退屈すぎて死んでしまうのかもしれない。

コロナの影響がもしなければもしかしたら遠出したりもしていたかもしれないけれど、毎日毎日防災無線で感染防止の呼びかけと迷い老人の放送とが繰り返し流れているので、なんとなく外出の気持ちも失せるし、少し滅入る。

 

今日は映画を観る時間が2時間半設定されていたので、「ステキな金縛り」を観た。142分でちょうど良さそうだったのと、三谷幸喜作品は一人で観るのに重すぎず冗長でもなく最適な気がしたから。そしてその期待に違わない映画だった。一人で映画を見る時間がこれからもタイムテーブルに組み込まれたら、三谷幸喜作品を片っぱしから見ようと思う。

あと図書館で、星野源さんのエッセイ「働く男」と、西加奈子さんの「白いしるし」と、米澤穂信さんの「氷菓」を借りた。重すぎないように慎重に選んだ。

氷菓は最近映画も見たけれど、小説は映画とは少し結末が違うらしい。アニメはすごく透明感のある作品らしいけれど、映画はどことなく灰がかった雰囲気の作品になっていた。ホラー映画が評価されている監督さんの作品らしい。高校生活って鬱屈としているのにおどろおどろしくない感じがあるから、映画の雰囲気は全然違和感がなかった。小説はどうなんだろう。内容を知っている作品の小説を読むのは、答え合わせと間違い探しをするようで少しドキドキする。星野源さんのエッセイはタイムリーなので借りた。前回もタイムリーって理由だけで「そして、生活は続く」を借りて読んだけれど、軽快になろうとしている人間の生活って感じでよかった。そういえば最近、求職者訓練で出会った元デザイナーの方と、「穏やかに過ごしたいけどなかなかそういう人生になっていかない」って話をしたな。私もその人も、やるべきことが見つかれば頑張ってしまうタイプの人間だけど、「やるべきこと」にあんまり見境がない人間だ。振って湧いたような話にぱっと飛び込んで、そこで試行錯誤していく類の人間。振ってわいたようなことに飛び込んで真摯になれる人間ってあんまりいないなと思っている。私は体力や気力がついていかない時も多いのでまだまだ修行が必要だけれど、その人は本当にいろんな才があって、星野さんのエッセイから感じ取れる星野さん像にも通ずるところを持った人だった。コロナ禍で仕事が途切れてしまったと話していたけれど、ちゃんとやりたいことを見つけて就職まで漕ぎ着けていて、本当にすごい人だと思う。星野さんのエッセイは隣人の話を聞いているみたいな感じだ。これもきっと軽やかに読み切れると思う。

 

今夫から連絡がきた。もう少しで夫が帰ってくる。今日は豚肉と野菜のコチュジャン炒めと中華スープってタイムテーブルに書かれてた。もう少し準備に時間のかかるものにしてくれると暇を持て余さなくて助かるなと思うけど、タイムテーブルに忙殺されても困るので言わないでおこうと思う。