ストウブと生活

最近、ストウブでごはんを炊いている。

 

高校時代の部活の仲間たちから結婚祝いの品にといただいたものだ。結婚に際してお祝いは本当に本当に、ほんっとうに要らないからね、と事前に断っておいたにも関わらずサプライズで頂いたこの鍋は、送ってくれた当人たちの善意や祝意とは裏腹に、私にとっては重い枷となっていた。

長らく家族との縁に悩んできたので、結婚生活を何があっても続けていくつもりがそんなになかったし、結婚というプライベートな変化を公に祝われることについて羞恥的な気持ちを感じていた。

ストウブは手入れのしかたによっては永年的に使えるらしい。そして生活への馴染みがよく、頻繁に使う人も多いらしい。私は「これなら生活にも馴染みそう!」という善意と、置いてあるだけで感じる「結婚記念品としてのそれ」の圧とで悩み、結局一年ほど箱のまま放置してしまった。

 

一年ほど経ったら結婚を報告したり祝われたりするイベントも一段落ついて、なんだかんだ使うかあ、と重い腰を上げてストウブを引っ張りだしたけれど、なんだかんだ使うには重すぎた。鍋が。調理するのも洗うのも面倒すぎる。

 

ストウブを使うために試行錯誤した結果、私は凝った料理が好きな訳じゃなくて、外食よりもフットワークが軽い時に自炊を選びやすいんだなあと思った。そしてふと気付いた。「ストウブを使っておかずを作るのも面倒だけど、炊飯も同じくらいめんどくさいな」。

めんどくささとめんどくささを融合させたらマシになるかなくらいの軽い気持ちでストウブで炊飯したら、めんどくささよりおいしさが勝ったし、手入れも炊飯の行程も炊飯器よりも軽やかだった。ストウブ、すごい。すごい炊飯ができるやつだ。

こうしてストウブは無事(?)、炊飯器としての居場所を手にいれた。ストウブ、炊飯器じゃないけど。

 

相手との関係性の深さに関わらず、誰かにちゃんと選んで贈ってもらったものはちゃんと使いきりたいし、生活の中にちゃんと居場所を作ってあげたいと思っている。それは他の誰にも見えなくても、私はこの人(たち)との人間関係を大事に思っているぞっていう私なりの誠意だ。相手にそんな意図がなくても、私がそう思っているからそうしている。

 

私はあんまり交遊関係も広くないし、どちらかというと身軽な人間関係を作りがちだし、実家にしろ夫にしろ家族と贈り物をし合う習慣もない。それでも時折、何かしらをいただく。

その度に試行錯誤して、強引にでも生活に馴染ませていくんだろう。

 

ストウブは贈りものとしての性質も含め、馴染みが本当に難産だったなあ。それでもなんとか馴染んだし、きっとこれからも大丈夫だ。多分。